1940
1950
1960
1970
1980
1990
HOME


20世紀の宝物を掘り出そう!

幻の名曲「四季の新潟」(1)

幻の名曲「四季の新潟」(2)

幻の名曲「四季の新潟」(3)



幻の名曲「四季の新潟」(2)


昭和18年ころの西堀の様子がうかがい知れる、何ともおおらかな絵ですね。
柳と桜を背景に旧制 新潟高等学校の学生を中心に憧れの女学生、そして
芸者集が描かれています。自由闊達、当時ののびのびした学生たちのバン
カラな気風が伝わってきます。この絵を見ていると、野尻さんが言われた
説が自然と納得できます。


♪春はうらうら 日和山〜
と歌われる新潟情緒たっぷりの歌は、花柳界と新潟大学(旧制 新潟高等学校)
の六華寮で歌い継がれてきた歌だった、ということがわかってきました。しかし、
この歌は作詞西條八十、作曲 中山晋平という当時のゴールデンコンビの手
で作られた歌であるにもかかわらず、不思議なことに市民の間では知っている
人は本当に少ないのが現実です。それはなぜなのでしょう?素朴な疑問です。
次に、花柳界で歌われてきた歌が、なぜ一方では寮歌(番外)としての歌われてきた
のでしょう?歌の質を考えると両者の共通点がどうも見出せません。
それはさておき、こんな良い歌を新潟市民に親しんでもらいたいものだと思いで、
個人レベルでいろいろと情報発信してきました。


取材されたことが縁となる
新潟日報の若い記者から私自身に取材の申し込みを受けて、取材されたことがあります。
私が62歳、定年退職後の生き方を模索していた当時です。その時に取材をされた記事が
2003年1月27日に、新潟日報のラウンジというコラムに掲載されました。


若い新聞記者に提言
後日、私を取材してくれた新聞記者に「四季の新潟」の物語を記事として取り上げて
取材してみたらどうだろう、と軽い気持ちで提言というか、提案してみました。
この提案が後々、思わぬ展開をみることになっていきます。
入社1年目という埼玉県からきたという、若い記者の既成概念をもっていない新鮮な感性で
新潟の歴史、県民性<、地理、文化を知る上で格好なテーマになると思っての提案でした。
「四季の新潟」について謎が多すぎて、私自身が知らないことが多すぎる。
そこで、若い新聞記者に声をかけてみた、というのが私の本音でもありました。

記者に提案してから、2ヶ月ほど経過してから電話がかかってきました。
「記者は音源をみつけました!」と興奮して報告してくれたのです。その音源は村上幸子が
歌っている「四季の新潟」のCDからダビングしたカセットテープだったのです。
しばらく音沙汰がなかった彼が、密かにいい働きをしてくれていたのに感激しました。

「取材のために2箇所、アポイントをとったので取材に同行してもらえないでしょうか?」
と私に同行を求めてきたので、すぐに私は、了解の返事をしたのは当然のことです。
新入社員として入社したばかりの若い記者にとって、今回のネタに興味はあるにしても
不案内な地に赴任して間もないことを考えれば、私に同行を求めてきたことは理解できる。
かくして、若い新聞記者と一緒にアポイントをとった二箇所の取材にいったきました。
そして、生まれて初めて新聞記者に同行して取材をしてきました。
時に2004年、私が63歳の時でした。生きているといろんなことがあるものです。

今回の取材は、私にとっても非常に良い体験となりました。
いろいろな新しい発見があったので、ここにその時に取材の経緯を期しておきます。


同行取材の経緯
生まれて始めて、若い新聞記者と同行して訪問取材してきました。
まず、「四季の新潟」が歌われ親しまれていた新潟大学の六華寮の事務所を訪問。
古町9番町にあった雑然とした事務所に入ると、20年以上六華寮の事務方をされている
という小林女史がお一人、私たちの対応していただきました。
六華寮の総会が近々あるということで、電話対応がいそがしそうでした。
現在の新潟大学の前身は新潟高等学校です。寮歌集の最後に番外として、
この歌が載っていました。

「四季の新潟」という歌は学生には親しまれて、愛されていたことは確かです。
「コンパの最後に必ずこの歌を歌っていた。」
この言葉は、六花寮でお世話になった人たちの共通な証言でもあります。
20年以上、事務所で勤めておられるという小林女史から昔の話を聞くことができました。
寮歌集、寮歌が収録されているCD、それに六華寮の絵葉書などの貴重な資料を
頂いたのは、思ってもなかった大きな収穫でした。

冒頭の絵は1979年6月、旧制 新潟高等学校創立60周年記念新潟総会の際に
六華寮事務局から発行された記念絵葉書の一部です。絵葉書は10枚入っていて、
当時の学校の校舎の写真のほか、越塚久雄が描いた絵が5枚入っていました。
5枚の絵はすべて、当時の学生のバンカラな気風が闊達な筆さばきで描かれた絵は
玄人はだしで、越塚氏は当時NHKのアナウンサーをしていた方という小林女史の
お話でした。まさに口八丁手八丁の人がいたものです。

次に、アンティーク音楽工房/SPレコードの会事務局の野尻守利さん(71歳)のお宅を
訪問してきました。この方は、「四季の新潟」について、新潟日報で4年前に記事を
書いておられました。最近は読売新聞「人」の欄に紹介されました。
新潟はジャズが盛んな街で私の学生時代(昭和40年代)はスワンやママなど数多くのジャズ
喫茶がありました。野尻さんはジャズが好きで、確か、40才位で高校の先生を辞めてジャズ
喫茶を開いた方です。

事務所は狭く、物置のような感じでしたが、真空管のアンプ、蓄音機古時計などの
ものが所せましとおかれ、20世紀の宝物が部屋にいっぱい詰まっているような所でした。
「『四季の新潟』は花柳界で歌われてきた、そして、寮歌の番外編として学生間で
歌われてきた、という2通りの流れがありますが・・・」と切り出したところ、間髪を入れず
「いやいや一本の流れです」「・・・・・?」「花柳界です」という答えが返ってきました。


なぜ寮歌として残っているのか・・・
野尻さんの話では、バンカラの時代ですから、学生が半玉の芸者と遊んだ際に
その歌を持ち帰って歌い始めたのが、寮歌の番外として残ったという話でした。
冒頭の絵葉書の絵をご覧ください。さもありなんという感じが伝わってくるでは
ありませんか。

最初にレコードに吹き込んだのは男性の歌手ということはわかっていたのですが
録音したSPレコードは廃盤になっていて、どこにも残っていません。数多い芸者宿には
一枚くらいはあるだろう、と探した人がいたが、一枚も残っていなかった、ということでした。
ところが、ところが、野尻さんが一枚もっていたのです。新潟県内には残っておらず
あるルートで県外から入手したのだそうです。貴重なSPレコードです。
その元歌ともいうべき貴重なSPレコードの音を初めて聞かせてもらうことができました。
それが、テノール歌手の藤原義江ばりの歌い方で、歌の出だしが村上幸子の歌い方と
違う歌いだしでした。(寮歌番外の歌い方は村上幸子の歌い方です)

野尻さんは、新潟日報事業社から本を3冊だしておられるだけに昔の音楽については、
さすがに造詣が深い方で、知識の宝庫のような方でした。
いろいろと有益な話を聞くことができました。
こんなにアナログにこだわっている方がいる、それだけで嬉しくなります。
そんな人と会えて、お話を聞くことができて、とっても充実した一日でした。
取材した後に、新潟日報の紙面に掲載されたのは2ヶ月の時が経過していました。


新入生歓迎ストーム(画・塚越久雄)昭和18年

幻の名曲「四季の新潟」(1)

幻の名曲「四季の新潟」(2)

幻の名曲「四季の新潟」(3)